昭和54年9月18日 月例祭
段々とこの世におかげを頂いてまいりまして、振り替えておりますと。もう真にあれもおかげであった、これもおかげであったということを実感とします。けれども、そのときには、それこそ血の涙がでるようにはがゆい思いをしたり、もうそれこそむねんざんねんで過ごしております。信心とは、そのじてんじてんで、いわゆるあれもおかげであった、これもおかげであった。これも御心眼のあらわれ、これも神愛のあらわれだとして、その場でそく有り難うございますとお礼を申し上げれることをいよいよきたいにきたえ、頂きに頂いてくということが信心なのです。
けれどもそのときには、そうおもえませんところに信心のみゅじくさがあるのです。いわえる、御心眼が分かっていない、神様の心が分かっていないということになるのです。今日はさっそくに、ここにほしんざんというお神酒のおそないが一番しょうめんにこうしてございましたが、もう本当にほしんざんと聞いただけで、自分はですね、本当に血がぎゃくにうつるように、はがゆい思いをさせられたと思っておったあのめいがらの先を見ますとね、そう感じるのです。今はもう本当にお礼を申させて頂いておるんですけれども。
今、たのしまるにありますけれども、当時は草野でございました。それで、「 」お酒の「 」おりましたから。あちらからずっと修行をさせて頂いております。それで、私もはじめの間は小学校の先生にならせて、先生から進められて、そういう勉強をしておりましたけれども、丁度半なかばに、このちくほきどうというのが、とうて。父が、「 」勤めておりました。ですから、まぁ~いうならば「 」がとられることになりますので、きゅうきょそれをやめまして。そして、まぁ~昔からしておるまぁ~小さい工事の店ですけれども、まぁ~「 」でもして、ひとつ、末はお酒やさんにならせて頂こうと、発心いたしました。それから十七の歳から久留米の酒屋のまぁ~こぞう担当を7年間勤めさせてもらいました。
もぉ~一生懸命酒屋になりたいというんですから。今の酒屋さんのように「 」ばっかりではありません。ですから酒の研究を一生懸命いたしました。久留米でもお酒のちょうごうでは一番と言われる「 」というお酒やさんにおかげを、7年間丁度兵隊検査「 」で勤めさせてもらいました。おかげでどうやら、こうやら、小さいしほんも出来て、椛目で酒屋をはじめることで、帰ってまいりました。それで、そのほしんざんというお酒やさんにこれからまた立ちあって、どんどんだしていただかにゃならんので、昔のふるい借金を全部しはらわせていただいて後はどうぞよろしゅうというてお願いに参りました。そしてしはろうてしもうてから、これからは現金でなからなきゃ売らんと言われた。もうそれこそ、あの~たにそこにつきおとされる思いがこのことだったろうか。もう本当に、二日間ばっかりは頭があがりませんでした。「 」もう残念で残念で、たまらん。おかげの泉を、「 」和賀心時代を創るの、その話が出ておるでしょう。
それから、まぁ~教会にお願いをして、教会のきし先生の母さんに話してもらって。善導寺の「 」というお酒屋さんにこうしょうしてもらいました。そして、「 」けれども、いよいよ「 」。これは大坪さん酒は中々きんどうかさむから、まぁ~いっちょうづつにしてくれと。本当「 」ひとつづつ貸してあげましょう。そんなら貸してもらわんでもよかと言いおうごたるけれども、そこからいよいよ工夫いたしましてね、まぁ~その当時は、「 」というて、酒屋さんのほとんどがぶんか正月までは、かけでございます。ですから私は、そこで考えて、そのひとたるの酒をげんきんかしなきゃいけないわけです。そこで、久留米のほうへでられますと、げんきんができますから。それこそ、よいしないは、少しでも久留米当たりよりも安く売るというので、そのひんや。椛目から久留米まで、大きなトラックやの自伝者で、二回ぐらいおうふくして、まぁ~げんきん売りにいたしました。
ところが、もう思いもかけないことでしたですね。もう田舎に酒屋をするというのですから、酒屋をどんどんだしてもろうて、またあの、「 」きゅうきょそこで、店は田舎にあって、売るのは久留米で売るという。そのかわり、げんきんでし、だからいっちょうづつ、これも段々はっきりその、もうけをするようなおかげを頂きましてね。まぁ~表のほうには、「 」こぉ~まぁ~とりあえず「 」それをたのしまるに、「 」とふくうめというお酒屋さんがございます。今でもありますでしょう。
あちらの「 」私が前をとおるときに、椛目に酒屋ができておるごたるから、お前行ってみらんかというて、あそこのいちのばんとうさんの中々きのきいた方でしたが。その方に「 」それで、まぁ~お酒を「 」もだしますからというてのです。まぁ~本当に私の「 」ふくうめの「 」半年まぁ~かりられることになった。もう思いもかけないおかげでしたね。だから振り替えて見ますとね、おかげです。
本当に、あっちの「 」というようなことで、ほっしんざんから断られた。それで善導寺に行ったら、善導寺でもまぁ~教会の先生の話じゃあるばってん、そんなにまぁ~かされないと。それでならひとたる、ひとたる「 」というふうで、そこでそのひとたるを今度はげんきんかして、もうことを思いついた。
それが、段々いとぐちになって、まぁ~「 」らしゅうなった。「 」しょうちゅう「 」ですから。それでまぁ~それを「 」頼まれたか。いまむらさんが、酒を出すから、ちょっと売ってくれということであった。とてもいい酒でした。
本当にあのおかげなんてすむ、「 」さんがどんどんだしましておったら、そういう国あたりに「 」求めて行くことはなかったでしょう。けれども、考えてみると、そのほっしんざんの「 」なんでもないようないきかた。そのことが第一、神様のおかげであることも分からずに、いつまでもその恨んでおるわけです。
「 」くさのにございましたから、酒屋さんのきんじょうまで、こうやってお酒をおろして「 」そういうような根性で信心させて頂いた時代もあったんです。考えてみる、そのほしんざんが神様であり、またはくぼやまさんが一つ、ひとたるしかかされんと言われても、神様の御都合であることが分かるんですけれども、それが分かっていない。
そして、もうとにかく自分のもう努力だけで繁盛するようになった。さぁ~お酒はどんどん半年「 」もらいますから。ならしょうちゅうも、ビールもどんどん現金でし入れ。その金でしいげて、そしてならビール、ワイン「 」おろしこうというような看板で、しばらくは繁盛いたしました。けれどもそれはつかのまでした。
その自分に私はの遊びやらどうらくが覚えたというのです。だからかえっておかげを受けたことが、いうならば遊びの道を覚えたということにもなるのです。私は今のような合楽で頂く信心を頂いておったら、そのじてんじてんでです、神愛を悟り、神様の心を分かり、それこそそれに涙のかかるようなときに神様の心が深く分かっておれば、いうならばほしんざんならほしんざんをいつまでも恨むことはいらなかったのです。恨むようなその心がだいたいいうたら、おかげにならん、徳にも力にもならんのです。
私共がね、今ふんまえておるその問題はです、いよいよ神愛と悟り、おかげと分からしてもろうて、そして頂くおかげでなからないとね、そういうおかげを頂いておっても、おかげをおかげと感じきらずにね、まぁ~そこれこ恨んでおる。そして今に見とれ、という根性でお商売をどんどん、まぁ~その「 」言わんばかりにその酒屋さんの「 」にまで、酒をはいたつするといったようなことを平気であって、信心を頂いておってもそうであった。教えが身に付いていない、神様の心が分かっていなかったから。
そして売れた、売れたというて喜んでおるけれども、その売れた「 」というときに、「 」を作っておる。もう自分の力で商売、いわえる自分の腕に自身がついてきたごろです。だから自分の腕に自身があるというほどあぶないことはございません。
先日のふくしん会のときに、文男先生が発表をしておりましたが、このごろ先生の話を聞いておりますと、確信、自身、確信ですね、神様を信じて疑わない。その思いで自分の体験を語りますから非常にその響いていく具合が違います。最近の先生の話は。
例えどんなに商売が繁盛しておってもです、次のてがかりに登るときには、また次のてがかり、信心のてがかりが出来ておらなければ先には進まんというようなことをはなしておられました。
今朝からの御理解にも、お商売に対する、一銭の物は八銭で売れという身教えがございますが、それはね、確かに一銭の物を八銭で売れば確かに売れますね。そして数が売れるからその方が徳なんです。けれどもそういうことで売れた、売れたであってはね、必ずまたおかげを元に戻らなければならないような結果になる。
そこでです、八銭で売らなければおられない。お客さんに喜んでもらわなければおられない。神様に喜んでもらわなければおられないようなお商売ができれるその根本になる信心を頂くことが、「 」いわえる婦人会で発表しております文男先生のようなところに、至らなければならない。
今朝ここで座らせて頂いておったら、ここにたなかりょうこという修行生がおりますが、そのたなかりょうこと頂いた。ここ、4、5日なんなにをもって行とするという御理解が毎朝続いています。お道の教師はね、いうならば、お道の教師「 」は座りのよう「 」とする。といったようなね、いうなら信心者。沢山の信者がおるけれども、その信者がいよいよ真の信心を目指させもろうてね。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるような信者をもって行とするとね。
昨日のなんかは、竹内よしこさんは、やっぱり「 」ですね。その竹内という竹という字はこの「 」と書いております。竹内さんのは。そのぶという人それが、こぉ~竹の竹の「 」あの竹ですね。いわえる、竹内先生の竹。同じごろですけれども字が違う。それをだぶって頂くね。だから信心をさせて頂きます者のその内容というものはまずは竹であり、素直でなからなきゃいけない。馬鹿ほどに素直になるということ。同時に、このぶである。武士の武であるこの竹である。いうならばきぜんとした元気なイキイキとした心が必要です。いうなら元気な心とする素直な心がその内容があることをもって行とするというような御理解でした。
私共も信心をさせて頂くならそういうね内容を頂いて、そしておかげでなからなきゃいけない。どうぞおかげをおかげをと。おかげを頂いても私が若いときの商売の話を聞かせていただいて、それこそ血の涙が出るごたるときにはそれこそ今にみとれと言ったような、神様の心とはもう裏側の心をいうなら使っておる。そして、すこし、「 」よくなって。また売れた、また売れたというときには、めぐりを作っておる。そして酒屋と「 」のようなことになりましたから。私は「 」になりますけれどもです。考えてみると、あれもおかげであった、これもおかげであったということになるのですけれども。そのじてん、じてんを、おかげと思えれる信心を頂いておかなければならんということになります。
私共信心の無い世の中にです、その素直な心、またはイキイキとした元気な心がある「 」ということでございます。
今日丁度研修をいたしておりますときに、「 」出て見えた。もう今まではこの、きにもあんまりとめなかったけれども御霊のお祭りが段々近づいてきたらしきりにそれが思われる。というのが、赤ん坊が生まれてすぐなくなられた。いっかん四百もあった赤ちゃんが生まれたんだけれども、まぁ~その亡くなった。だから先生、あの、皆さんみずごというですね。みずごのことを非常にとりあげて、それを「 」といったようなことだけれども、それは「 」許してあるというのが親心とおっしゃるから、それは、「 」さんにお米がお世話になってこぼれていくようなもんであって。天地の親神様の目からごらんになるなら。それがどうということではないけれども、もうぼたいまんぞくにそろうて、そしてこの世に出て来たという。それは、もう「 」ばってん、御霊様としては「 」それが丁度今年で30年になります。おれはもう30になるわけ。それでしきりに気になるからといて、今日お届けがございましたから。いやそれは、「 」ちゃんと一番はじめの子ですから、主人が名前までをつけておりました。なら名前もあったわけだから、「 」今度の霊様のお祭りにもまたそのつもりでこうしをしなければならんが、今日も玉ぐしだけをあげていきなさいというて、玉ぐしをあげて頂きましたが、その方がです。今日、ごけんせつ、ごぞえい「 」おそないをもって見えられた。昨日お参りしてみえたとき、本当におそれいりますという。とにかくごぞえいがはじまったじてんで、とても私は普通では考えもできないようなきんがくをどうでもおそないさせて頂きたいというて、お願いをさせて頂いた。
これはできそうにもないね、二十万たまった、三十万たまったけれども自分の思いというのはとても「 」ね。ところがです、先日から息子がこういう、有難いことを申しますというのが、こちらにお願いに参りまして、そのことを本気でまたお願いをしなおしさせて頂いた日に、息子がお母さん僕はほっかいど旅行するといったけど、僕はもうやめたと。丁度この13日に、そのまぁ~なっか「 」金があったんだそうです。だからそれを下げさせて頂いたら五十万ある。だからお母さんこれはあんたにあげるから、もうあんたが、そのごぞえいにおそないするならおそないしてよかばい。というて、くれました。という。私はそれを今日を改めて聞いて、ははぁ~なるほど息子が感じたことも13日の日にまんきになったということ。これはかんながらのものだとおもうて、お母さんに言うた。
お母さんは実は、自分の願いが成就する。そうするともうわずかで自分の願いが成就することになるというて喜んだ。おかげで今日はそろうたというて、そのおそないをもってきましたね。やっぱりね、ただお取次を頂いて、お願いをしとくだけではなくて、それは本気で願われなければならないということでございます。
今日久留米のいのえさんが、朝の御祈念の後に、お届けをされますのに、御夢を頂いた。べんじょうにやらせて頂いた、いうならだいべんじょうにはいらせて頂いたらもうみごとな畳みがひいてある。自分はこう、立派な着物着てから入ろうとすると、その畳みがこぉ~動いておる「 」。だから、こげん「 」こっちにさげおるごたる、こげんすりゃ、こっちの「 」。どうでもいきにくいところを頂いたというお知らせであった。
まぁ~御結界というところはおべんじょうだ。とくに合楽のおべんじょうはもうそれこそ大小便「 」だせれるような、どういう大きな事柄であっても、問題であっても、お届けが出来る内容のある高度な、それも誰かが頂いておりましたですね。合楽の御結界は、たかはしさだとしと頂かれた。たかはしとは、高度なはし。神様の世界と氏子の世界を取り結ぶそういういうならば、「 」が、合楽の御理解の中には「 」。ところがいのえさんの場合はその大便所をつかおうとおもったけれども、そして思うておられることは、これはもう着物をぬいで、はまって便所にはいらなければできないというお知らせであった。
ですからね、お取次を頂くからには、やっぱそのさっきの方ではないけれども、本気で願わなければならないということ。これは今日はたままつかずこ先生が、夕べ共励殿で、もう本当にそれこそここの修行生の方たちは眠る時間がすくないですからね、朝もどうでも清々しい有難い目覚ましのおかげを頂かねばならんから。それを本気で願わなければいけないと思うて、本気で明日の朝の目覚ましのお願いをさせて頂いたとたんに、共励殿にしらきの大黒様が奉っておりますが、おいてありますね。あれが二つにわれたかというような大きなおいさみを頂いたというておりますね。どうぞ明日目覚ましのおかげが頂きますようにというて、その「 」本気でね、本気で朝の目覚ましのおかげを頂くことを願わなければいけないね。いうならばはまって、お取次を頂かなければならない。立派なお便所だけれども、その普通のようなことではいけない。これは着物「 」かなぐりを捨ててね、そして填まってお取次を願わないかんもんだなということをいのえさんは今朝から頂いております。ですからね、例えばごぞえい、ごぞえいというだけではいけません。お互いの真心がそこにけっしょうされなければできんのですからね。こういうことがまた「 」おもわれないほどしの大きな合楽にとっては大事業ですから。皆さん一人一人が、あなた方がおそないをするのではない、神様がおそないをさせて下さるというおそないでなければつまらん。そのためにはです、あの人が一千万円の「 」私も一千万円ということはいらん。それこそ五万、十万でもいい。自分なりのものを本気で願って、本気でお取次を頂いてはまってそのことに取り組ませて頂きゃ、はぁ~なるほど神様がおそないをさせて下さったということになるのです。
今朝の御理解がそうでした。いうならば十銭のものをです八銭で売れば、「 」そんのようだけれども「 」教祖はおっしゃるから、さっそくならうちの十銭の「 」を八銭につけかえおう。それではね、なるほど売れた、売れたで売れましょうけれども、売れたときには繁盛したときには、私が一番はじめに聞いていただいたように、その売れた、売れたが神様のおかげとも実感できずに、そのときに遊びを覚えたり、どうらくを覚えたりといったようなことになって、またもとのところに戻ってこなければならないという結果になる。だからそうあらなければね、お客さんに喜んでもらいたいと「 」もっと喜んでもらいたいと思うならどこでもより安くしなければならない。お客さんが喜んで下さいすれば、それがそのまま神様のお喜びであるということがわかっての、八銭。十銭を八銭でなければならん。
でないとまたおかげを落とすのですね。どうぞ、どうぞ、「 」ございますけれども、たくさん売れますようにというお願いではなくてね、それはもうお願いをして、おかげを頂きましょうけれども、そういうことが続いて大繁盛のおかげを頂くと、その大繁盛がかえっておかげをいうえる巡りをつくるもとになるということになってはつまりません。
そこで内容ね。信心させて頂く者はそれこそ真の信心を目指すものをもって「 」とするのであり。その「 」とする内容というのは、素直というものとイキイキとした心というものが中になからなければ「 」とはいえない。ということになるのでしょうね。
皆さんこれは一つようと、「 」私がいうなら体験させていただいた。もうその時に今から考えてみると、もう素晴らしい神様の御演出。私は七年間それこそ「 」と働いて、それをためて、七年間働いたのが全部借金ばらいになってしまった。そして後はもうどんどんだしてもらわねばならんからと。「 」それこそ血も涙ないかのようにですね。もう後は大坪さん現金にしてもらわねばならんとこういうた。もうそのときばっかりは寝込んでから頭が上がらんかったね。本当にそれは神愛であるけれども、神愛とは悟りきらずに本当にほっしんざんのたいしょうはなんという血も涙もない「 」じゃろうかと。もう何年間という間恨みつづけてきた。そして今に売れるというて、今度は次の酒屋にいったら、そこでもやっぱりひとたるしかかしてもらえなかったけれども、これではとても酒屋は出来んから、なら現金売りができる久留米の町に出て行こうというて、現金売りをはじめた。それからすこし、酒屋さんらしゅうなってきた。そのかわり日に二回つづも久留米に通わしてもらうというようなことになってきたね。お店の前もなんとはなしに酒屋さんのようなふうになってきた。そこにある大きな酒屋さんがとうりかかって、自分のところの酒を売ってくれ、ぼんせきでしはいが良いからというようにいうて下さった。しかも酒が良いというのですから、もう本当に「 」飛びついて、そちらのお世話になった。それこそまぁ~いっぺんに繁盛したという感じです。ところがそのころから、私のどうらくがはじまった、遊びを覚えたと。だからそういうことではいけんでしょうが。
皆さんが、例えば繁盛また売れた、売れた。繁盛する。ところがあなた方はできそこなわなくても、そのために息子ができそこなうということになったらどうするですか。だから結局は、そこのじてんでですね、それこそあれもおかげであった、これもおかげであると分からせてもらえるような信心の受けものを作って田中りょうこである。田中の田というのは田んぼのことです。その田中をいっぱい肥やしに肥やしてねおくところの信心でなければ良いものはうまれてこない。受けものがあってのおかげならば、おかげをおとすことがないね。いったんよりもにたん、にたんよりもさんたん、ごたんと。これを大きくしていくその受けものを肥やしに肥やしておるところにです、いうならば竹の字を二つですね。素直な心と元気な心。イキイキとしたその心を内容として、その信心をね、良い信心の受けものにしていく。そういう信心をもって「 」とするというような信心を身につけていかなければならん。私どもが今私がしておるような話をあの当時に聞いておったらですね、もっと違ったお商売ができたであろうと思います。そこで、なら教祖がおっしゃる十銭のものを八銭で売れという。はぁ~教祖がおっしゃるからそう、そうしおうとういのではなくてですね。いうならばたしかめながらね、「 」例えば安くしてもろうたね。さっきのおそないでもそうです。はぁ~あの人は一千万円やんけん、私も一千万円と「 」気がするね。だからこれだけなら自分が「 」自分の信心の程度を思うて、百万円もよかろう、二百円もよかろう、五十万円もよかろう、五万円も十万円もよかろうということになるのです。それもです、なら本気にならなければだめだということです。本気で願ったら、それこそ大黒様二つにわれるようなおいさみを頂いたとたかまつかずこ先生がお届けをしております。
それは朝の目覚ましをどうぞと、そのぐらいなことでも、本気で願わなければいけないということである。久留米のいのえさんが頂いておられる、ここで「 」おかげを頂きたいという念願が燃えてくる。それをいっし、一心ですね。一つの志を立てて、それを一心に貫こうとするならばその貫こうとする心をお取次を願わなければならない。それにはね、填まりがいるということです。填まって願うということです。神様がかならずですね、私は一千万円のおそないをすることをお願いしたばい、ところがいっちょんおかげを「 」ちいうごたるではいかんわけ。もうどうでも頂くというんですから。はじめはこけざんにね、十万ぐらいからでもいいじゃないか、五十万からでもいいじゃないか。そしてそこにはです、もう本当に今日おそないに持って見えた方ではないけれども、夢にも思わなかったことが展開してきておるね。そしていうならば本当に自分ががんばっておそないをしたのではない、神様からおそないをさせて頂いたということになるのですね。そういう稽古をさせて頂きながらいよいよ内容を内容としてのいうならば素直元気な心の内容としての信心をいよいよ身につけて行く。そして「 」あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる。人を恨む「 」というのではない。「 」自分自身と神様との間の問題であってね、そこに私共はいうえる神愛を悟らしてもらい、神様のみこころを分からしてもらう。そういう受けものがたしかになって、頂くおかげならば、ゆるぎがない。ゆるぎがないだけではない。あの世にももっていけれる、しかもこの世にも残しておけれるというほどしのたしたことになるのですね。
私の過去のいうならば信心を、ただ商売繁盛のお願いをして、商売繁盛さえすればおかげだと思っていた時代からですね、「 」それこそ相済まない、神様を恨むようなことを平気でやってきて、気もついていなかった。今はじめて、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになったのですね。もうあのことだけはもう一生忘れられんといったようなものやらも更々なくなってね、あれが神様だったと分かるほどしのおかげを頂いておるのだけれども、それをおもいきらんところに、信心の未熟があるのです。
今合楽で御教えを頂いておりますけれども、もうそれこそ広くて、深くてね、もう本当に素晴らしい御理解を頂いております。だから「 」もそういう信心にならせて頂かなければなりませんがね、いっぺんに、一足飛びにということは中々出来ません、あぶない。
今度の総会の時に、秋永先生のところの孫が、飛び込みたいから「 」兄ちゃんどんが、飛び込みおるけん、やっぱ自分「 」それを私は、夕べ聞かせて頂いたんですけれどもね、あの~かいしんが見おってあったそうですよ。そして、「 」それでたくさん「 」もうじんこくこきゅうをしてから、「 」まずそれには、いよいよなろうて、飛び込むのに、そのりょりょうも覚えてからの飛び込みであり、踏ん切りでありね、おそないをさせていただくというてもです、いうならば自分の信心のそれにあわせて、すこし「 」というところに想いを「 」ですね、本気でそのことを願い、それこそ填まってお取次ぎを頂いて、そして金光、いうなら文男先生ではないけれども百万円のお金だけにはふじゅうはしませんというような、いうなら百万円の徳をあれだけ受けたというようなお徳を受けてですね。ためには、やはり大きいがいいけれども、というてなら大きいのを一足飛びにしおると、「 」泳ぎもしきらんとに、「 」だから危険でしょうが。だからそれこそ小さいところからでもよいから、それを実行させてもらおうと腹を決める。そしてその腹が決まったら本気で願える、腹が決まったら填まったお取次ぎが頂けれる。そこからね、神様のおかげで出来たというおかげを頂くことができる。そういうおかげでなからなければまた徳にもならんと思います。
いよいよ23日の霊祭が近づいてまいりましたから、もう「 」の御霊様でもこうやって、活動はじめておるにちがいありません。ですからそれにおおじてね、皆さんの心も一つ、真心一杯の信心で御霊様との対決の場になる御大祭、御霊の御大祭を頂きたいと思います。どうぞ。